カモミール〜生き辛さと共に生きる

カモミール〜生き辛さと共に生きる

生き辛さを感じて生きてきた人生、母を乳がんで亡くし、姉を自死で亡くしました。行き場のない悲しみ、悔しさ、無力さを感じてます。30代半ばになり、このままでいいのかと思い、心理を学ぼうと模索中。カモミールのように心身をリラックスさせられる人になりたい、花言葉の「苦難の中の力」「逆境に負けない」にあるような人になりたい。色んな思いを綴るブログにしようと思います。

姉の自死について〜自死遺族になった日

姉の自死について〜自死遺族になった日

2017年3月に姉は自死をしました。

本当に思ってもなかったことでした。


理由は何だったのか色々思うことはありますが、これが原因だと一つに絞ることはできません。


少しずつではありますが、姉のことを触れていこうと思います。

今回は姉の自死が判明した時の事を触れたいと思います。

遺書が届いた

3月下旬に姉からダンボールが届きました。


詳細はまた別の機会に触れようと思いますが、
姉は東京から沖縄に引っ越すために2月下旬に沖縄に行きましたが、
住む場所や就職を決めてなく、
沖縄でゆっくり過ごしながら決めることにしていたので、
私の家に一旦大きい荷物とかは預けておきたいと言ってました。


2月下旬に東京を発つ前に荷物を預けていたのに、
3月下旬にまた荷物が届いたのが不思議でしたが、
何かお土産でも送ってくれたのかなと思って、ダンボールを開けると、
そこには、姉の身分証明書など一式と携帯電話が出てきました。


何が何なのかよく分からなくなり、
もう少し中身を見てみると、封筒が何通が出てきました。


開けてみると、そこには「遺書」と書かれてました。
一通り読み終え、他の荷物にも目を通しました。


頭が真っ白になりました。
何が何か分からなくなりました。
夢でも見ているのか、
それともドッキリなのかと思いました。


深呼吸をしても、水をゆっくり飲んでも、
椅子に深く腰掛けても何をしても落ち着きませんでした。


何十分か経って、やっと「考える」という行為ができるようになりました。

「警察に届けを出さないと」
そして警察に行き、行方不明届けを出しました。


この日は遠くから後輩が遊びに来て、うちに泊まることになっていたので、
いきなり断るわけにはいかないので、
何とかいつも通りを取り繕って過ごしました。


行方不明の届けを出してから約2ヶ月

行方不明届けを出してから、
姉がどこにいるのか探すあてもない中探しました。


何も手がかりもなく、姉が東京を発つ前に働いていた職場にも電話をし、
怪しまれることを覚悟して、親しかった人を紹介してもらい、
話を聞いたりもしました。


何をしても手がかりも掴めず、
警察にも何度も電話して、状況を聞いても「分かりません。」
だけでした。


そのようにして2ヶ月が過ぎました。


警察から電話、そして、、、

行方不明届けを出してから2ヶ月くらい経ったある日、
警察から電話がありました。


「お姉さんによく似た方が見つかりました。
確かめてほしいから署までこれませんか。」


仕事が終わり、夜中に警察へ、、、。


写真を見せてもらった時のことは一生忘れることはないです。
涙がこみ上げてきてるのに涙が出てこない、
自分は何かのドラマを見ているのか、
これは自分の身の上に起こっている出来事なのか、
自分の中で心が分離したような気持ちになりました。


DNA鑑定したいので、と口内の粘膜を採取してもらい、
鑑識に回すとのことで、色々手続きをしました。


鑑識結果

DNA鑑定に出した後、1ヶ月位して警察から電話がありました。


「DNA鑑定は100%のことは言えないけど、
ほぼお姉さんで間違いないです。」
頭が真っ白になりました。


警察へ行き、色々手続きをし、
火葬も全て済ましてあり、遺骨に関しては外部の業者が預かっていると言われ、
そこへ取りに行きました。


家に帰ってから気付いたこと

家に帰ってきてから色々書類に目を通すと、
姉の死亡推定日時に目がとまりました。


姉の亡くなった日は亡くなった母の誕生日でした。。。


前から計画していたのだなと分かりました。
携帯のGPSに残っていた記録を見ると、
どうしようか迷っていたような感じでした。


そして実は東京に戻っていたことも分かり、
きっと戻る場所もなく、どうしたらいいか分からなくなっていたと思います。


亡くなった場所を訪れて

警察に姉の亡くなった場所の位置を教えてもらい、そこへ行きました。


とある河川敷、特に何かここに思い出がある場所でもないです。
夜中に河川敷の木陰で大量にインスリン(姉は1型糖尿病でした)を注射したそうです。


昼間はランナーやサイクリングをしている人が多いですが、
こんなところに夜中に一人で行くのは普通に怖いです。


どんな気持ちだったんだろう。
どうして姉の辛さを気付けなかったんだろう。
どうして一言でも辛い、死にたいって言ってくれなかったの。
一緒にお母さんを最期まで看病し、見送ったのに。
お姉ちゃんがいなくなったら、弟が悲しむってわかってたはずなのに。


お姉ちゃん、お母さん亡くして辛かったんだよね、寂しかったんだよね、
ずっと付き添って、お母さんのために尽くしてたよね。
心に大きな穴が空いてたんだよね。
他の何にでも埋められなくて、辛かったんだよね。


お姉ちゃん、ごめんね。


夜中に一人で河川敷を歩くとき、怖かったよね、一人にさせてごめんね。


どんな気持ちだったのだろうと思って、夜中に行こうと思いましたが、
足がすくんで、本当に怖くなったのと、
夜中にあそこに行ったら自分も後追い自殺をするイメージしかできなくなって、行けませんでした。


この後、自分の身の上に起こったこと、体調不良、休職、退職、
家族に対する思い、
自死遺族やグリーフという言葉を知り、分かち合いに行くようになって、
などはまた今後書いていこうと思います。


さいごに

きっと、この記事を目にされる方は、
自死遺族、関係者の方が多いかと思います。


もしかしたら希死念慮のある方も読まれているかもしれません。
私も希死念慮あります。
生きづらいです、息苦しい世の中です。
この記事を読んで励みや勇気をもらうことはないだろうし、
苦しさや悲しさしか感じられないかもしれません。


私には何かすることはできないですが、
寄り添える人になりたいです。
生きづらいけど、人には支え合う力があることを信じてます。


このブログはコメントがアカウントの有無に関係なく、
書けるようになっていますが、
私が承認しなければコメントが公開されないようになってます。

早い返事はできないのと、コメントを公開するかは私の判断になってしまいますが、
コメントは自由にしてください。